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土曜日 - 4月 01th, 2006
昨晩、偶然リリー・フランキーさんのテレビ番組を見ました。
新人のアーティスト達がやってきては、リリーさんに悩んでいることについて
アドバイスしてもらうという番組です。
リリーさんは人生の酸いも甘いも知っているだけに
皆さんが思わずうなづいてしまうようなアドバイスをしておりました。
(木村カエラさんの悩み事は傑作でした)
福岡県生まれのリリー・フランキーさん(42歳)は武蔵野美術大学を卒業していますが、彼の肩書きはとてつもなく幅広いものです。イラストレーターに始まり、小説家、コラムニスト、作曲家・・・あげればきりがない数の肩書きを持ってます。そんなリリー・フランキーさんの活躍が注目され始めたのは30代半ば頃。それまで何をやっていたのかというと、なかなか破天荒な生活を送っていました。5年間で武蔵野美術大学を卒業したかと思うと、父親の「どうせ働かないのなら、5年間なにもやるな。そうしたら何かみえてくるはずだ」、という言葉を真に受け、サラ金に手を出しながらも5年間遊び尽くしたといいます。その生活を続けたおかげでなにかに吹っ切れたのか、今度は逆に働かない生活に飽きたようです。この人生経験こそが彼の自由な作風に表れ、「自由」という言葉に輝きをもたせているのかもしれません。
彼の初の長編小説、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』も買って読んでみようと思います。
金曜日 - 3月 31th, 2006
今、民主党の人事が揺れております。
先日、前原誠司民主党代表が
喜多方市のアグリ特区の視察に訪れました。
記者会見の席上、白井喜多方市長から
「起き上がり小法師」を贈られました。
以前、会津選出の渡部恒三国対委員長が
前原代表に贈った「起き上がり小法師」が
起き上がらなかったことは、
皆さんもご存知のことだと思います。
白井喜多方市長は「これは必ず起き上がります」と
一回り大きな小法師を渡しました。
前原代表も気合を入れて転がしましたが
法師はしっかりと起き上がり ご本人も安心したようです。
しかし、混迷を極める民主党、果たしてこのように
起き上がることができるのでしょうか。
下の画像は我が家の「起き上がり小法師」です。
家族の数より1つ多く用意するものです。
木曜日 - 3月 30th, 2006
3人乗り3輪自転車タクシー「
ベロタクシー」は
今年も4月より、喜多方市で運行されます。
運営は、NPO法人「環境ストレンクス」(代表理事・江花圭司氏)です。
期間は4月から11月末までで市内全域が対象。午前11時から日没まで運行します。初乗りは500m内で大人300円。乗車方法は乗用車のタクシーと同じ挙手の合図や電話申し込みとなります。
市街地の路地などを散策できるのが特徴で、運転手は観光ガイドの役割を担い、観光客に名所や見所を案内します。
ベロタクシーはドイツが発祥。ベロはラテン語で自転車を意味します。電動補助付きの自転車で、運転手の後部に2人を乗せる。排ガスもなくゆっくり走るため“環境と人に優しい乗り物”として欧州で普及しました。
蔵のまち周遊など観光のためのコースや貸切運行も可能です。
詳しくは、環境ストレンクス 電話090-7323-3314までお願いいたします。
水曜日 - 3月 29th, 2006
今日は、仕事で朝から仙台に行っておりました。
びっくりしました。会津では朝からふぶいていて
仙台でも雪がちらついておりました。
仙台市内もすごく寒かったのですが
最後の「寒の戻り」であって欲しいと思います。
フロントスタッフでも先日、もうタイヤを代えたとか、
いや今年はまだ早いとか。喧喧諤々やっていたようですが
私はスタッドレスタイヤのままで正解でした。
画像は愛車の今朝の状態でした。
本日のフルキャストスタジアム宮城での楽天ゴールデンイーグルスと
オリックスの試合では、皆さん、雪のちらつく中、ゲームを観戦したことでしょう。ラジオでも毛布を持参してくださいとか、スキーウエアーを着て観戦するように呼びかけておりました。すごい話です。
ところで会津好きのドロンさんが会津の四季折々を
美しく映し出したビデオを公開しております。
よろしかったら
こちらからどうぞ。
月曜日 - 3月 27th, 2006
昨日は、自宅・町内の組総会がございました。
近くの割烹料理店で行ったのですが
この総会・懇親会で私の組長としても任期も終わりとなりました。
私共の町内は600世帯ほどありまして
その4割が2人以下の世帯ということになります。
つまり子供達が巣立ってしまった高齢者の世帯ということになります。
総会冒頭の組長挨拶では、最近お気に入りのお話も少しさせていただきました。
それは、木彫界の巨匠・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)のお話です。
田中といえば「60 70は洟垂れ小僧、人生100から100 から」
「いまやらねばいつできる、わしがやらねば誰がやる」といった
有名な言葉を残し 文化勲章もいただいた有名な彫刻家です。
ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。
平櫛田中は、百歳を超えても彫刻の仕事をしておりました。
そして102歳になった時、ストックの木材がなくなりかけましたので、弟子に買ってくるよう頼みました。弟子は念のため、「何年分買いましょうか?」と
聞きますと、田中から、大きな声で返事が返ってきました。
「そうだな。すまんけど、あと30年分を」
田中は107歳で亡くなりました。
でも102歳の時、あと30年分の仕事の材料を買うところに、
“生涯現役”の意地と誇りを感じさせてくれます。
とても元気をつけてくれるいい話だと思います。
土曜日 - 3月 25th, 2006
中町ホテルのレストラン「ラ・メール」には、
相田みつおの書が、額の中に入れて飾られています。
そして時折、作品を交換させていただいております。
ちなみに私が最も好きな作品は、
花を支える枝 枝を支える幹
幹を支える根っこ
根っこは 見えないんだよなあ
であります。でもやっぱりパソコンの字では
感じが出ませんなぁ
木曜日 - 3月 23th, 2006
郊外にあります神指城跡の丘陵地も
桜の名所だと思っております。神指城跡は、
けやきの大木が有名なんですが、桜もなかなか見事。
あまり地元の人も訪れませんが、私の好きな桜スポットです。
*神指城跡
慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命により越後領主上杉景勝は、蒲生秀行に代わり会津120万石という石高を得ました。これは秀吉、徳川、毛利に次ぐ全国第四位の大領であり、景勝は豊臣家の五大老に任じられます。秀吉が亡くなると、天下取りをめぐって、家康と旧豊臣方の対立が生じます。秀吉の恩恵を受けた景勝は、戦いに備えて新たな新城を築く計画をたてました。鶴ヶ城は会津盆地の東南にあり、山に近く、町割もできていて城の拡張が難しかったからです。また、戦いも弓と槍の時代から鉄砲や大砲が主流となっており、近くの小田山からの砲撃を危惧したこともありました。
慶長5年、景勝は、腹心の直江兼続に新城の築城を命じます。鶴ヶ城から北西3km余の神指村など13の村を移転させ、城郭の割り出しが開始されました。石垣の石は城東の慶山から、木材は四方の山から切り出されます。本丸は3月18日から、二の丸は5月10日に工事が始まり、6月1日には築営がなったといいます。しかし、工事は完成をみないまま突然中止されました。家康の会津征伐の情報を得て、途上にある白河城の修築が急がれた為です。そしてついに家康は、7月21日、景勝征伐のため江戸を出発します。途中、石田光成挙兵の報が届き、家康は西へ踵を返します。この時、光成と景勝が家康を挟み撃ちにする計画とも言われましたが、景勝は背後の伊達正宗や最上義光、前には蒲生秀行らがいて、出ることは出来ません。関ヶ原の戦いは家康の大勝利に終わり、もはや景勝の出番はありませんでした。景勝は戦わないまま家康に降参し、米沢30万石へと移されます。こうして神指城は未完のまま、その後も顧みられることはありませんでした。
ご存知の通り、関が原の戦い、幕末と日本の大きな歴史のターニングポイントには、会津が大きく関係しております。私は、この丘陵地に立つと
いつもその歴史への想いで胸がいっぱいになります。
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