支配人、会津観光について語る!
会津若松・フジグランドホテルの支配人星野のブログ
木曜日 - 3月 23th, 2006

お薦め、神指城跡地!

郊外にあります神指城跡の丘陵地も
桜の名所だと思っております。神指城跡は、
けやきの大木が有名なんですが、桜もなかなか見事。
あまり地元の人も訪れませんが、私の好きな桜スポットです。

*神指城跡

慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命により越後領主上杉景勝は、蒲生秀行に代わり会津120万石という石高を得ました。これは秀吉、徳川、毛利に次ぐ全国第四位の大領であり、景勝は豊臣家の五大老に任じられます。秀吉が亡くなると、天下取りをめぐって、家康と旧豊臣方の対立が生じます。秀吉の恩恵を受けた景勝は、戦いに備えて新たな新城を築く計画をたてました。鶴ヶ城は会津盆地の東南にあり、山に近く、町割もできていて城の拡張が難しかったからです。また、戦いも弓と槍の時代から鉄砲や大砲が主流となっており、近くの小田山からの砲撃を危惧したこともありました。

慶長5年、景勝は、腹心の直江兼続に新城の築城を命じます。鶴ヶ城から北西3km余の神指村など13の村を移転させ、城郭の割り出しが開始されました。石垣の石は城東の慶山から、木材は四方の山から切り出されます。本丸は3月18日から、二の丸は5月10日に工事が始まり、6月1日には築営がなったといいます。しかし、工事は完成をみないまま突然中止されました。家康の会津征伐の情報を得て、途上にある白河城の修築が急がれた為です。そしてついに家康は、7月21日、景勝征伐のため江戸を出発します。途中、石田光成挙兵の報が届き、家康は西へ踵を返します。この時、光成と景勝が家康を挟み撃ちにする計画とも言われましたが、景勝は背後の伊達正宗や最上義光、前には蒲生秀行らがいて、出ることは出来ません。関ヶ原の戦いは家康の大勝利に終わり、もはや景勝の出番はありませんでした。景勝は戦わないまま家康に降参し、米沢30万石へと移されます。こうして神指城は未完のまま、その後も顧みられることはありませんでした。

ご存知の通り、関が原の戦い、幕末と日本の大きな歴史のターニングポイントには、会津が大きく関係しております。私は、この丘陵地に立つと
いつもその歴史への想いで胸がいっぱいになります。

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